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自由、フリーダム。誰かに縛られるなんてまっぴらだ。
俺は、私は自分の思うままにやりたい。ルールなんて必要ない。


とか言ってるやつに、ルールなしで生きてみろと言いたい。

自由というのがどこまで自分に無責任で、例えようもないほど孤独なのかということを考えてみればいい。
何かに属するということはその時点で制約を受けている。その中での自由を模索するからこそ自由があるんだ。

空を飛ぶ鳥のように自由になんて言葉を度々見聞きする。
心をまっさらにして、鳥になってみればいい。
飛べることなんて、ただの進化の結果でしかなかったんだろう。
食物連鎖という制約の中で、生き永らえるために。
もちろん俺も飛べないからホントのとこはわからないけどさ。

じゃあ本当の自由なんてどこにあるのさ。なんて言う人もいるかもしれん。
自由はあるもんじゃない。作るもんだ。感じるもんだ。

「楽しいことでも毎日続いたら、それと気付かずに退屈と変わらないね」
確か忍空ってアニメのOPの冒頭。
ふとこの歌が頭を巡った今日、この頃。
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いやー、最近ロクなこと書いてなかったんで、普通のことでも書きましょうかね。
今年の初めすぐから、部屋にカレンダー貼ってんですけどね。スヌーピーの。
スヌーピーいいですね。たまに心底意地汚そうに笑うのがいい。
まぁそんな話はどうでもいいとして。
カレンダー貼ってんですよ。
カレンダーってのも結局気分的に貼ってるだけってなもんみたいでして、俺の部屋中に置かれてる時計みたいに、あるってことだけで完結しちゃってるんですよ。
というのもですね、こないだゴルフのお誘い頂きましてね。とある日曜日どうですかって。
仕事が不定期なもんですから、日曜日だからって行けるとは限らんわけです。んで、お誘いの日が第何週なのかなって思って、スヌーピー見たんですよ。
するとですね、全然お誘いの日が日曜日じゃないの。月曜日。一応祝日。
おいおい、曜日間違ってんじゃんってメール返したら、いーや、日曜日だって言い張るの。
間違えてるくせに強情な野郎だなって思って再度スヌーピー見たんですよ。
ちなみに、スヌーピーの最後のページにですね、12月分全部載ってる便利なページがありまして。めくるのも面倒くさいしこれでいいやって貼ってたわけですね。
それがですね、2010年って書いてやがんの。2010年のカレンダー見て相手に間違ってんじゃんとか偉そうに言ってんの。しかもそのことに2月末になって気付いてやんの。
もう、情けなくてですね。相手方には煮るなり焼くなり好きにしてくださいと報告しときました。
カレンダーにしろ時計にしろ、活用しないものを貼る、置くことは、非情に無意味なのだなと感じた先日でした。
スヌーピーが俺を見て、意地汚そうに笑ってやがった。
異常と通常。
どこが境界かなんて誰にわかるだろうか。
誰でもきっと普遍的な部分と、偏執した部分を持ってる。
世間一般の人間の過半数が当てはまれば、それは通常になる。
異常も、通常も、いわゆる多数決によって決められている。
誰が裁決をとるわけでもない。暗黙の了解のもと、多数決が行われている。
極端に言えば、一つの国である異常性愛者が大多数存在するならば、それはその国でのスタンダードになってしまう。
己が通常であると自負するのは、逸脱するのが怖いからだ。
どんな狂気のもとでも、逸脱するのを恐れるから現状に適応しようとする。
モラルも良心も、適応している間はブラックアウトしてしまう。
なぜか。それは、その狂気こそが通常だから。
自分は通常だなんて思い込んだら、知らぬ間に心まで操作されているかもしれないね。
逸脱を恐れるな。いくら多数の人間が手を上げたとしても、それが間違っていることだってある。
価値なんて人に決めさせるもんじゃない。全ての価値は自分で決断しろ。
世の中、どんどん便利なものができあがっていく。
物事の自動化なんてその最たる物だろう。
多分、自動なんて言葉が夢物語であった時代の人たちが、夢を現実に!って追い求めた努力が実を結んだんだろう。
便利であることに対して、何の関心も抱かなくなっていく俺たちはハイテクノロジーこそあれど、想像力が失われてゆく。魚のさばき方が忘れられてゆく。障子の貼り方が忘れられてゆく。手紙の書き方が忘れられてゆく。
それらは立派なロストテクノロジーだ。
日テレの「誰も知らない泣ける歌」
すでに泣ける歌に留まってない気がする。
何よ。ちょっとした芸人の歌ネタやってみたり。
ネタ切れかな。
まぁ、エハラマサヒロは好きだからいいけど。。。波田陽区とか出てきたら怒る。
そもそも、泣ける歌って定義が難しいと思うんだよな。
今、ふと泣ける歌を考えてみたんだけど、自分にとってなんでその歌が泣けるかっていう「なんで」によるところが大きいんだよ。
例えば俺の泣ける歌はサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」とか、みんなのうたで流れてた「小さな木の実」とか。
まぁその他も色々あるけど本当に誰も知らないような歌ここに書いても「はいはい」で終わりそうなんでやめとく。

明日に架ける橋が泣ける。なぜ?もちろん曲もいいし、詞も好き。
それよりも、10代後半位の時に精神的にやられかけてた中、この歌に癒された。だから泣ける。
あの時はあの時なりに辛かったよなぁ。
こうこう、こういうことがあったりしたんだよなぁ。
この歌をああやって聴いてたなぁ。
そんな思い出に浸るような、当時の自分を投げかけてくるようなそんなノスタルジー的な面も含めて泣ける。

小さな木の実もまぁ色んな諸事情により泣けるわけだけど、こればっかりは理由がよくわからんです。ただ、好き。そして、ただ、泣く。

とにかく、こうやってツラツラ書いてみても、「へぇーそうなんだ!俺も明日からこの歌で泣くぜ!」ってやついないと思うんだよなぁ。

アノ番組で紹介される歌ももちろんいい曲だと思うし、メッセージ性が強いとも思う。
でもね、製作者側がいかに思い入れを込めて作ろうとも、それが万人に同じ気持ちを抱かせるわけはないの。恋愛の歌とかでも「泣ける」って人は自分の過去とかに同調させて泣いてるんだ。泣けるから聴いて!って言われても、自分の過去がその歌にマッチしなかったら泣けるわけがない。
いかに壮絶なエピソードのもと作成された曲であれど、それを聴かせりゃ100人が100人泣くってもんじゃない。
それだったらエピソードもクソもなく、ただ圧倒的な存在感で無理やり客の涙を搾り出すアレサ・フランクリンとかのほうが泣ける。
でも泣くってのはいいことだし、素直な感情表現だと思う。
曲の持つメッセージ性を素直に受け取って、素直に泣けることができれば、それはそれで幸せなんじゃないかな。
そのためには、様々な人生経験なんかも必要なんじゃないかな。
俺も、まだまだこれからだなぁ。
そして、俺はまた来週も「誰も知らない泣ける歌」を見てる。
プロフィール
HN:
エジー
性別:
男性
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